南極観測船 宗谷1/350 製作記





2006年に宗谷の実船を見学してから10ヶ月、1/350南極観測船宗谷がハセガワからリリース
されて11ヶ月、そして製作開始は2007年5月5日に開始し7月28日に完成と、当初予定してい
たより随分長い期間を経て、ようやくの完成となりました。 




1/350 南極観測船宗谷 第一南極観測隊 完成画像




南極観測船宗谷。右舷から見下ろした画像です。船橋脇からバルジに降りるタラップ
は資料写真ではある時とない時があるので、どうやら折りたたみ式の様です。資料写
真では錆が酷くてもともとの色が分かりにくかったのですが、離岸の際の記録映像を
見るに、白だったのではないかと判断し、白く塗装しました。
(説明書の色指定はウッドブラウンでした)



南極観測船宗谷、左舷後方からの見下ろしアングル。自作のネームプレートは左舷
側に貼り付けました。宗谷の第一次南極観測時はまだヘリ甲板は小型のものでした
が、第二次観測の失敗の経験を生かし、第三次からは大型ヘリの発着が可能な大型
ヘリポートが装備されました。



吃水線下をトリミングしてみました。ジオラマ映えしそうな船ですね。



右舷後方より撮影した同様の画像です。軍艦とはまた違った船の魅力が見えてきます。



右舷側から見た船首付近。第二次観測の際には、この部分はウェルデッキ(船首楼
甲板)が廃され、デッキを一枚重ねてフラッシュデッキ(全通甲板)化されました。



船体中央部。白い成型色のパーツは一旦グレーサフで隠蔽し、さらにベースホワイ
トを重ね、その上から宗谷専用ホワイトを塗装するという手間をかけました。こう
することで、白いパーツの上に直接白を塗装した場合と比較して、白の発色を落ち
着かせる効果を狙っています。



ヘリは格納庫を開放状態とし、二機を設置しました。南極観測の記録映画では、この
ヘリ甲板で体操や赤道祭、家族からの音声メッセージの放送やアフリカ人の歓迎の
ダンス、カラフト犬の軽量など、さまざまな活動が行われている様子が記録されてい
ました。



特徴的な船首形状。第二次観測以降の形状と比較して、第一時観測時のこの部分は
メリハリのある形状をしています。なお、地領丸時代には船尾にも船尾楼を持つ船首
尾楼形状の船体を持っていました。



船橋部分。このキットの特徴である、船橋前面クリアーパーツの効果が
よく現れています。弱めに施したスミ入れもモールドの精密さを引き立
たせてくれました。



船体中央部分。ボート類自体のディディールは悪くないのですが、ダビッドと
の接合部分がこのままでは少々実感に欠ける気がします。ロープやバンド類を
工夫してディティールアップすれば、より実感的な仕上がりになると思われます。



ヘリは「動きを感じさせる」目的で、斜めに配置しました。第一次南極観測
において、非常に重要な役割を果たしたベル47G型機です。




1/350同一スケールでの戦艦三笠、戦艦大和、南極観測船宗谷の大きさ比較。

明治維新より40年、三笠を主力とした連合艦隊で日露戦争に勝利し、大戦中には巨大な
大和を作った日本が、戦後、大戦を生き抜いたこの小さな宗谷で過酷な南極観測に挑戦
したという事実に、深い感慨を憶えます。

日本が長年に渡り、こうした偉大な海への挑戦を続けてきた結果、今日の繁栄を手に
している事を、我々日本人はけして忘れてはいけないと実感させられます。



***南極観測船 宗谷 船歴***

1936年
旧ソ連通商代表部より3隻の耐氷型貨物船の建造を川南工業松尾造船所が受注
同造船所において、第107番船として起工

1938年
ソ連船「ボロチャエベツ」と命名、進水式が行われるも、艤装工事中に海軍からの
要請でソ連への引渡しを中止し、「地領丸」と改名して竣工、辰南商船の所属となる

1939年
日本海軍艦政本部にて、地領丸の買い上げが決定される

1940年
日本海軍籍にて、艦名を「宗谷」に改名。横須賀鎮守府所属
測量業務に従事する特務艦として8cm単装砲、25mm機銃を装備

紀元2600年特別観艦式に参列
マリアナ諸島サイパン島の測量業務を行う

1941〜1942年
東カロリン諸島ポナペ島、ニューブリテン島ラバウル、ソロモン諸島やショートランド
などの測量業務を行う

1943年
米潜水艦よりの雷撃を受けるも魚雷が不発、その後、爆雷にて同潜水艦を撃沈
船足の遅い特務艦の潜水艦を撃沈するという稀有な戦果を上げる

1944年
1944年トラック島にて米軍の空襲に遭い、回避行動中に座礁
再度米軍機の空襲を受け、離礁作業困難となり、対空機銃も撃ちつくし船体を放棄
乗組員は総員陸上へ待避

翌日、トラック島の泊地に浮かんでいた船は宗谷1隻のみ。艦船50隻、航空機270機、
地上施設も壊滅的な被害を受ける中、奇跡的な生還を成し遂げる

1945年
満州へ軍需輸送中、米潜水艦からの雷撃を受けるが無事に満州へ到着
室蘭で終戦を迎えた後、横須賀帰港。米軍に接収される
GHQより大蔵省へ返還。引き揚げ船へ改造。スカジャップの管理下におかれる

1948年
引き揚げ船業務終了 総引き揚げ輸送人数19000名余り

1949年
海上保安庁灯台部へ移籍。石川島播磨重工業にて灯台補給船への改造が行われる

1950年
灯台補給船LL-01宗谷として完成。以後5年間に渡って灯台補給船として活躍

1955年
宗谷が南極観測船となることが決定。海上保安庁灯台部より解役
三菱重工横浜造船所にて調査工事、海上保安庁に宗谷設計審議会が発足
第三管区海上保本部巡視船に配置転換

1956年
竹芝桟橋の宗谷船上にて竣工式
第一次南極観測へ出航

1957年
南緯69度、東経39度の地点に接岸を完了
第一次観測隊員10名を残し離岸
天候悪化により氷海に閉じ込められ、ソ連砕氷船オビ号に救出される
東京へ帰港の後、第一次南極観測の経験を生かした改造工事が行われる
第二次観測に出航、再び氷海に閉じ込められる

1958年
アメリカ海軍砕氷船バートンアイランドに救助を要請するも、自力で脱出
し、バートンアイランドと合流、協力を経て再び氷海に突入。ビーバー機
により第二次越冬隊を送り込むことに成功。第一次観測隊を収容するも、
カラフト犬15頭を残して南極を離れる
東京へ帰港後、接岸できない場合にそなえて大型ヘリコプターを搭載可能
とする改造が施される
第三次南極観測に出航

1959年
偵察ヘリコプターがタロ、ジロの生存を確認(後に「南極物語」として映画化される)
東京へ帰港後、第四次南極観測に出航

1960年
ソ連砕氷船オビ号と定着氷に共同接岸、昭和基地へピストン空輸を行い、
第103便の空輸に成功
帰港後、第五次改修工事開始
第五次南極観測に出航

1961年
定着氷に接岸、昭和基地への空輸42便に成功
帰港後、第六次改修工事開始
第六次南極観測に出航

1962年
東京へ帰港。この航海をもって宗谷は南極観測船の役割を終了
巡視船への改装工事が行われ、巡視船として北海道へ派遣

1963年
北海道第一管区海上保安本部の巡視船として北洋パトロール業務に従事

その際、海難救助出動350件以上、救助船125隻、救助人員1000名の実績を
残し「北の守り神」と称される

1978年
解役が決定され、サヨナラ航海と称して全国14の港を巡回し、人々の歓迎
を受ける。 10月2日、解役式が行われる

1979年
「船の科学館」前面水域にて一般公開を開始。

2006年
宗谷の見学者指数は670万人を突破。宗谷は今日も訪れる人々に長い歴史
を語りつつ、現在に至ります





製作記TOPに戻る


左側にメニューページが表示されない場合はここをクリック

艦船模型製作代行 モデルファクトリー ハイギヤードはこちら

スケールモデル完成品販売ネットショップ CHERRY&ANCHORはこちら

■管理人オススメ!本格海戦ゲームアプリ「蒼焔の艦隊」■


↑Android版のダウンロードはこちら↑

↑iOS版のダウンロードはこちら↑

フル3Dで作成された艦艇で迫力の大海戦を勝ち抜いていくゲーム。無料にて配信中!(一部有料アイテムあり)




inserted by FC2 system